4歳で養子に出され、3畳の部屋での一人暮らし

こんにちは。佐々川です。

これまであまり書いてきませんでしたが、このブログを書いているのはどんなヤツ?
と思う方も多少はいるのではないかと思い、これから何回かに分けて自分の人生を
簡単に振り返ってみます。

興味ない方は、華麗にスルーして下さい。

ただ、ちょっどだけ珍しい体験をしているので面白いかもしれませんよ。

今僕の息子は4歳です。
まだあどけなさが残っていますが、
少しずつ自己表現をするようになりました。

思った事をストレートに言葉にし、
思い通りにならないと怒り、
叱られるとすぐ泣き、
全力で親に甘え、
疲れた夜は30秒で熟睡します。

必死に自分の世界を広げ、成長しようとししています。
そんな息子の様子を見守るのが僕は大好きです。

 

およそ30年前、4歳の僕は熊本の幼稚園に通っていました。
少し人見知りであった僕は大勢の友達と合わせるのが苦手で、数人の仲の良い友達と
だけ良く遊ぶような子供で、ブロックと砂場遊びに夢中になっていました。

ちょうどその頃、僕は親戚の家に養子に出されました。

僕には4歳年下の弟がいますが、弟ではなく長男の僕が選ばれました。
その理由は今でもよくわかりません。

自分の親からは説明も受けていません。
いつの間にか、本人の知らない間に、養子に出されていたのです。

 

ただ、日常生活はそれまでと変わりなく実の父母の元で旧姓を使って生活していました。
学校でも旧姓で通していましたが、
この頃になると家族で自分だけ名字が違うという事を知らされていました。

その為か、なんとなく家族との間に見えない壁のようなものを子供心に感じていました。

 

ひとつ困ったことがありました。
卒業アルバムです。

今思えば大したことではありませんが、当時はそれなりの重大事だったのです。

最後の名簿の欄には戸籍上の名前で表記する必要があるらしく、僕の卒業アルバムは
旧姓ではなく、戸籍上の、正しい姓が記されています。
担任の先生も困っていましたが、どうしても融通が効かないようです。

卒業式、ツーンとインクの香りのする真新しいアルバムをめくって、名簿の欄を
パラパラしていると、クラスで必ず一人僕の姓に気づく厄介な同級生がいました。

ん?誰だこいつ?
状態です。

今までいなかったヤツが卒業アルバムの名簿にいるのですから
それはそれで、当然の反応ですよね(笑)
ただその状況をうまく説明出来ず、悲しいやら、困るやら複雑な心境でした。

 

表面的には実の父母の元で普通に生活をしていた僕ですが、小学生になったあたりから
実の父母の仲が急速に悪化し小学4年の時に別居する事になり、僕は養父母のいる
大阪に引っ越しする事になりました。

そして、中学1年の時には実の父母は離婚してしまいました。

父、母がいがみ合い、ケンカする様を見せられるよりいっその事別れてくれた方がいい。
親にも自分の人生があるのだから、それを大事にして欲しい。
当時もそう思っていましたが、12歳で思春期真っ盛りの僕の心は傷ついていました。

 

高校では実の父を頼って一人福岡に行きましたが、いろいろあり
2年の夏から高校の近くの海辺の街で1人下宿生活をする事になりました。

広さは約3畳で、簡素なベッドと私物を置くスペースだけがあるような部屋です。
当然の如くテレビはありませんでした。

この時代何が流行っていたのか、世の中の動きなどは学校帰りに本屋で立ち読みして
キャッチしていました。

自分の人生を振り返ってみると、この下宿時代が一番きつかったです。
食事が出ない盆と正月は僕には地獄でした。

 

当時は盆と正月は多くのお店が正しく休んでいました。
仮にお店が開いていたとしても、お金も少ししか持っていなかったので状況は変わりません。

なので、お腹がすけばビスケットをかじり、水を飲んで膨らませて我慢をしていました。
食べ盛りの高校生にはさすがにこたえました。

僕は今でも結構忍耐強い方だと思います。
1日くらい何も食べなくても苦痛だとは感じません。

食べ物意外でもいろいろな事を我慢できてしまうのですが、それはこの時の経験が
大きく影響しているのかなと思います。

 

高校は一応進学校だったので、卒業後はほぼ全員が大学に進んでいました。
進学しない生徒は学年に1~2人くらいでしたが、僕はそのうちの1人です。

お金がなかったからという理由もありますが、それ以上に
大学に通う意義がわからなかった。

周りがみんな大学に進むから、
就職に有利だから、
という理由で進学という道を安易に選択する事に一種の不順、いやらしさ
のようなものを感じていました。

あれは若者特有の気持ちだったと思います。

 

高校卒業後は養父母のいる大阪に戻り、アルバイトをして、お金が貯まると旅行を
するというような暮らしをしていました。

当時は認識していませんでしたが、今思えばニートですね。

周囲の風当たりも強かったのですが、大阪という都会だったので、まだましだったと思います。
都会の人は良くも悪くも人の事には無関心な人が多いいです。

 

数年も経つと、そんなニート生活にも少し飽きてしまいました。
人生の目標のようなものがなかったので当然だと思います。

いつの間にか流されるように、アルバイトの延長の形で地元の食品スーパーに就職してしまいました。

半年後、乳製品の担当者になった毎日朝6持から品出し、在庫管理に発注業務、
お客様対応、他店のヘルプ、アルバイト指導などを行っていました。

そんな生活に満足はしていませんでしたが、忙しく流れる時間、程よく体を動かす
肉体労働は鬱屈していた僕には丁度いい疲労感を与えてくれました。

 

しかし、丁度その頃人生の転記が訪れます。

当時我が家にはスカパーのアンテナがたっていました。
チャンネルの契約はしていなかったと思いますが、スカパーは無料放送をよく行って
いてたまたま僕が回したチャンネルで予備校の授業が無料で放送されていました。

その授業は化学の講義でした。

高校生の頃、僕は化学の授業が大嫌いでした。
初老の男性が、たんたんと、ひたすら自分のノートを見ながら板書する。
僕らはそれを書き写し、テストに出るから覚える。
同級生はそんな授業をとっくに見限り、塾や予備校で化学の授業を受けていました
が、僕にはそれが出来なかった。
今ならインターネットで無料の授業動画とか公開されていますが、当時はそれがなかった。

そんな経験をしていた僕はテレビの画面の奥で展開される予備校の一流講師の化学の
講義にのめり込んでいきました。

その講師は化学の面白さ、不思議さ、愉しさを全力で伝えようとしてくれました。
高校時代に満たされなかった好奇心が一気に開放されていくのがわかりました。

その後、仕事をしながら必死に勉強し直し、1年後には京都の私立大学に通う事になりました。

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